The NET 網に囚われた男 |
「The NET 網に囚われた男」
監督:キム・ギドク
(2016/韓国/112分/カラー)
キム・ギドクの監督作品を観たのは今回で3本目になる。『魚と寝る女』(2000年)と『嘆きのピエタ』(2012年)だ。どちらも暴力的に凄惨な場面が多く、弱虫な私はそれに脅えながら頑張って観ていたのだが、それでも私の好きな映画だ。特に『魚と寝る女』は終了間際で上映時刻が遅かったのか、最初からレイトショー上映だったのか、その時の池袋の夜景を今でも覚えている。演劇でもなんでもそうなのだが、心に残る作品はその日の劇場の外の様子まで記憶に残るのは何故なのだろう。
彼が脚本を担当した作品は『レッド・ファミリー』(2013年)と『鰻の男』(2014年)を観ているが、韓国の地政学的立ち位置を意識した脚本であって、それが今回の『THENET 網に囚われた男』に引き継がれているように思える。漁船の故障で韓国の領海に入ってしまった北朝鮮の漁師ナム・チョルの話なのだから、北であろうが南であろうが、残酷な拷問シーンなどが当然あるものと思って、身構えて観ていたのだが、そのあたりはずいぶん控えめな印象だった。考えてみれば、興味本位に南北問題を扱う訳ではないのだから、必要以上に煽情的な表現がある訳ないのだ。そういった態度が監督の願いとは逆の結果を招くに違いないからだ。
ナム・チョルは北朝鮮に帰って死ぬことになるのだが、その死に場所が潮の流れや風で南にも北にも流れ得る海だったことが、次の監督の言葉を思い起こさせる。「意志にかかわらず、人間は、生まれた場所の政治的イデオロギーのなかで身動きができない」。つまり、「NET=網」から脱出する手段は、チョルの科白にあったように、魚と同じで、死しかないということか。
チョルの幼い娘がボロボロになった北朝鮮製のクマのぬいぐるみを抱いて笑うシーンがある。とても可愛らしい笑顔なのだが、そのカットを入れた監督の気持ちが悲しいほどにわかる気がした。未来への希望というには、あまりに弱々しい笑顔なのだが、それでも入れざるを得なかった、その気持ちだ。(あるいはもっとシニカルな意図があったのかも知れないという猜疑心に近い感覚がないわけではないのだが、あの笑顔に免じて考えないことにしよう。)
10日間で撮りあげたという新聞記事を見たが、それにしてはチョル以外の登場人物も、その人となりに寄り添うように丁寧に描かれている。ナム・チョルの語り口を聞いて、北出身の死んだ祖父を思い出すという監視役のオ・ジヌ。家族を朝鮮戦争で失い、北朝鮮を激しく憎む取調官。北朝鮮でチョルの帰りを待つイ・ウヌ演じる妻。彼女は廣木隆一の『さよなら歌舞伎町』でデリヘル嬢を演じた女優だ。映画はともかくとして、いい女優だと思った記憶がある。
映画とは直接的には関係ないことだが、一部の役者たちの語るハングルと日本語字幕の丁寧語が静かに共振しているのを感じた。今回初めて経験した感覚だ。帰ってからインターネットで「ハングル入門講座」的なものを探して、その中の「敬語」の項目を読んでみた。ハングルの尊敬語が、日本語で言うところの絶対敬語のようなものだと初めて知って、それなら謙譲語の項目が(すくなくともその講座には)ないことも当然だななどと納得しながら、丁寧語の項目を読んでみた。超入門なので日本語のデス・マスにあたるハングルがカタカナ表記で載っていた。ああこれだったんだなと思った。その語尾表現と日本語字幕の丁寧語が共振していたのだ。私がニュースなどで聞くハングルは、責めたり嘆いたり、つまり結構強い語調のものが多かったので尚更だったのだろうが、監視役のオ・ジヌやイ・ウヌ演じるチョルの妻の優しい口調が心にしみた。チョルも優しく話す男だった。
韓国ドラマも観ないし、映画もこの記事に載せた5作品ぐらいしか観ていないのだが、今回(くどいが)初めて感じた感覚だ。韓国の俳優に惹かれる日本女性の気持ちというのはこのようなものなのかと、少しわかった(ような)気がした。
2017年1月16日 -シネマカリテ-